夫婦池 能勢 妙見宮 正善院 お寺の沿革 正善院 当正善院は、大本山・誕生寺の直末寺であり、摂津国(大阪を含む)で建立された五ヶ寺のうち、現存する三ヶ寺のうちの一つでもあります。 正善院の日蓮聖人像も、この法脈を伝える祖師像であります。 蘇生願満の御尊像のご利益がお参り下さった方々すべての心中の「みほとけ」と感応し、それによってご供養ご報恩の誠を尽くされ皆様が心身共に「よみがえり」をして頂ける功徳がありますよう、日々精進祈念しております。 日蓮聖人御降誕の地 大本山 小湊 誕生寺 http://www.tanjoh-ji.jp/ 夫婦池 能勢 妙見宮 暁鐘成(あかつきのかねなる)は、『夫婦池をうづみて平地となり ここに能勢候の邸を建てられ門内の傍に妙見堂を勧請あり…』とあるように、 天満堀川通水の祈りに夫婦池跡地に能勢領主の天満屋敷(現在 正善院)を建立し、その邸内に妙見堂を建て能勢妙見山の御霊像を法華勧請されたのであります。 野間 能勢妙見大菩薩のご分体 厨子 佛師 前田熊蔵 参考資料 http://www.town.nose.osaka.jp/material/files/group/1/3103bunnkazai.pdf 『浪花百景』北妙見堤 大阪市顕彰史跡 大阪市顕彰史跡第216号 天満堀川妙見堤跡 (北区扇町1丁目) 天満地域の水利向上を目的として、慶長3年(1598)年に難波橋と天神橋の間の大川右岸から北に向けて開削された天満堀川は、当初は扇町付近で止まっていた。 河水が停滞し汚れが目立ったが、天保9(1838)年に樋之口まで開削が進み、大川と再接続すると、河水もきれいになった。 ここ扇町付近の堤には、桜の木が植樹され、近くに妙見宮があったことから、妙見堤と呼ばれた。 大阪の名所を描いた江戸時代末頃の浮世絵集『浪花百景』には、当時の様子が描かれている。 天満堀川は、昭和47年(1972)年に埋め立てられ、現在は道路となっている。 大阪市教育委員会 詳細資料 大阪市市立今昔館 今週の今昔館(151) 北妙見堤 20190219 https://konkon2001.blogspot.com/2019/02/blog-post_19.html
お寺の行事説明 星祭り祈願 人間一生の間には、何をやっても上手くいく年と、その反対に何をやっても上手くいかない年があるように、必ず良い時期と悪い時期があります。 これを俗に、星廻りが良い、又は悪いという風に言います。 年令にも一つの周期があり、悪い年が「厄年」です。 一生涯の内、男性が四十二才、女性が三十三才の時が厄の中でも大厄と言い、最も災難の多い年と言われております。 それでは、悪い星廻りの年は何をしても絶対に思いどおりにならず、厄年に当たる人には必ず災難があり、それから逃れる方法が無いのでしょうか。 法華経には、悪い星は追い払い、善い星を呼びよせることによって、七つの災難を七つの福に変える力があると言われており、星祭り祈願がその一つです。 節分の日、星の神様であられる能勢同体妙見大菩薩に法華経を唱え、皆様の星を供養致します。 節分 節分の本来の意味は、「季節を分ける」を意味しています。 ー悪霊を払うー、炒った豆で鬼をはらう。 この撒く豆は、「魔滅」にも通じ邪気を追い払って、その年の無病息災を願うという意味もあります。 誰しも心の中に、人に苦しみを与える鬼、あれも欲しいこれも欲しいという貪欲の鬼、善悪の判断がつかない愚かな鬼が住んでいるのです。 春を目前に、降りかかる災いを払うだけでなく、心の鬼退治にも努めたいものです。 お盆 お盆にご先祖の霊を供養することは、「あの世」にいる故人と「この世」に生きる私たちの隔たりがなく、先祖と子孫が久々の出会いを喜び合うこと。 大切なのは、先祖にまごころをお供えすることだけど、先祖だけでなく、万物の霊も供養して、与えられた生を喜び合おう、という気持ちも大切。 飲んだり食べたり話をしたりしながら、先祖の前で自分の考え方や生き方に間違いはないかを反省することも忘れないように。 盂蘭盆会施餓鬼供養 盂蘭盆(お盆)は、お釈迦さまのお弟子の目連さまが、死後餓鬼道に堕ちてしまった母親を救う供養の姿から始まりました。 それが日本に伝わり、推古天皇の時代(592年)に、宮中の正式な行事として始まりました。やがて寺院の法要となり、次に一般化されて現在の供養の姿になりました。 供養とは、花や物だけではなく、合掌する心や姿そのものです。合掌されて死者は安らかになり、生者は穏やかになるのです。これがお盆です。 日蓮聖人のご遺文『盂蘭盆御書』に、「盂蘭盆についてと申し候事は」と大事な事を述べられています。 先ほど述べたように、餓鬼道に堕ちてしまった母親を、目連さまが救う供養について、餓鬼道から救うのみで真の成仏ではない、と聖人は示されました。 供養者の目連さまが成仏しなければ真の成仏とはならないと、述べられています。 つまり死者と生者が同時に仏の心となることが、供養の姿として最も大事であると言われています。 春秋彼岸会施餓鬼供養 彼岸花は少し変わった植物で、開花期には葉がなくなります。 葉があるときに花がなく、花があるときに葉がないことから、「葉見ず 花見ず」とも呼ばれます。 葉と花は同時に生きることがなくても、お互いを思いやる。 これはお寺に眠るご先祖さまと、今を生きる私たちの関係に重なるのではないか。 私たちは花なのでしょうか、葉なのでしょうか。いずれにせよ、葉のこころを知る花でありたい、花のこころを知る葉でありたいものです。 水子の供養 人間として生をうければ心配はつきもので、その嘆きは人によって様々です。 日蓮聖人はその嘆きの最もなるものは親より先に子が死んでしまう悲しみであると示されています。 我が子の姿を見られるならば、たとえ火に入っても、頭を砕かれても惜しくないのが母の心情で、母親の苦悩から生まれる供養によって子供の成仏は疑いないものであると説かれています。 法事、祈願回向、永代納骨 [法事について] ●日蓮宗では、法華経読誦、唱題の法事や法要を行うことによって、故人は、霊山浄土へと行くことができるといわれます。 ●初七日から七七日・百か日まで行う重要な法要を忌日法要といいます。 ●一周忌より後の法要を年忌法要といいます。 ●ご供養に関しては、後追いのご供養として回忌のお経を上げることも出来ます。 ●亡くなられた仏様は、しみじみと読経を聞かれるといわれますのでご安心ください。 [祈願について] ●ご自分の願いや、自力で解決できない悩みを妙見大菩薩さまに祈ります。 [永代納骨供養について] ●お位牌は当山の開墓である能勢頼富公のお位牌とともにお祀りされます。 ●遠方のお墓へは毎日お参りに行くのは難しいですが、当山では本堂にて毎日お経をあげご供養いたします。 ●命日には戒名を読み上げてご回向いたします。 ●毎年、 盂蘭盆会施餓鬼法要、春・秋彼岸法要をいたします。 ●折りには、法要のご案内をお送りさせていただきますので、個別のお塔婆のお申込みを受付します。 大本山 誕生寺 直末寺 正善院 日蓮聖人は、千葉県小湊で誕生されました。 日蓮聖人が誕生された時、三つの不思議な事がおこりました。 庭先から泉が湧き出し、浜辺に青い蓮華が咲き、にわかに海面には鯛の群れが集まったと言われております。 又、聖人の母上、梅菊女(うめぎくにょ)がご危篤の際、聖人が蘇生(そせい)の祈願をされると、その祈りが叶い、四ヶ年延寿されたとの事です。 願い空しく聖人が臨終されると、その御威徳、霊験を伝える為に、お弟子の僧達が日蓮大聖人御降誕の地、千葉県小湊の誕生寺に祀られている日蓮聖人像を、「蘇生願満(そせいがんまん)の祖師」として全国に布教伝道し、その御信仰が広まりました。 江戸時代には末寺が百五十八ヶ寺にもなり、誕生寺は総本山・誕生寺と称せられる様になりました。 夫婦池 能勢 妙見宮 浪花百景 「北妙けん堤」(国員画) 天満堀川は、南は堂島川、北は扇町公園付近の芥山までつながっていた。 天保九年(1838)夫婦池を埋めて大川につなげられ、妙見宮にちなんで妙見堤と呼ばれた。 桜の樹々が植えられ、正善院妙見宮の周辺は景勝地となり、春には多くの花見客が賑わっていた。 「女夫池の妙見さん」は、その地に能勢氏が屋敷を建て、能勢から妙見菩薩を勧請(かんじょう)して始まり、地名も「女夫池町」として皆に親しまれた。 ▼作品 植樹されて間もない若い桜なのだろうか。 細い幹に咲く満開の花が堀川沿いに立ち並び、田園地帯に彩りを添えている。 田畑には影が落ち、地平線は赤く染まっていることから、夕暮れ時を描いたものだろう。 花見を終えた人々が、静かな足取りで土手を歩く。 国外所蔵館 アメリカ ボストン美術館(ボストン) フランス 国立美術研究所(パリ) イタリア キヨッソーネ東洋美術館(ジェノバァ) 橋爪節也 編集者(2020)『原寸復刻「浪花百景」集成』 より引用 森琴石 大阪名所独案内 夫婦池 妙見宮 夫婦池 能勢の妙見堂は明治十八(一八八五)年に一般公開とあるから、十五年の森琴石『大坂名所独案内』出版時、大阪の人々には、こちらの妙見さんのほうが身近な存在であった。 大阪市内の妙見信仰の高まりがここから湧き上がってゆく。 お寺には妙見信仰論なる運動が起こりその資料が残っている。 霊験あらたかなお姿に老若男女が集い、縁日の午(うま)の日には終日参拝客が絶えなかったという。 「関西の法華霊場と法華信仰」 望月真澄 身延山大学教授 能勢の妙見信仰は山岳地域から関西の都市部に進出していきました。 洛陽十二妙見に代表されるように京都市域に妙見菩薩像が勧請されましたが、大阪でも能勢妙見宮の分院が誕生しました。 「夫婦池の妙見さん」 大阪の北の中心地・天満には女夫池(めおといけ)妙見堂(日蓮宗正善院、大阪市北区)があります。 地誌類に、女夫池町の東にあり、此地其初は一の池ありて朝来池と称たりしが後世其側に又一ッの池を堀て双となりしにより世人女夫池といひならわせりとぞ、後世其辺市中となるにより女夫池町と号す、然るに去天保八丁酉年堀川すじを新鑿(しんさく)ありて淀川の流れを通ずるにより女夫池町に橋をわたして女夫橋と号し、池はうづみて平地となり、此に能勢侯の邸を建られ、門内の傍に妙見尊星を勧請あり、 是は則ち攝州能勢郡野間村妙見山の本尊胴体の霊像にましませば応現わけて新なりとて貴賤つねに詣でて晴雨とともに間断なし、殊更午の日は御縁日なりとて詣人群を成し夜店の商人など多く出て甚にぎわし (『摂津名所図会大成』其二) とあるように、大阪北の中心地・夫婦池町に能勢氏の邸宅を建て、妙見菩薩像を祀ったことが由緒となっています。 大阪市内から能勢の妙見堂へ歩いて参詣すると早くても約半日かかるため、 この妙見堂は大阪町人の身近にある妙見霊場として地域の信仰をあつめました。縁日となる午の日には参詣が多く、夜店も出るほどであった様子が地誌類等に記されています。「法華霊場記」には、「大坂御霊場 天満 夫婦池 能勢出張 妙見堂」とあり、既に江戸時代には夫婦池妙見堂が能勢妙見堂の大阪出張所としての役割を担っていたことが知られます。 現在の大阪市北区中津から池田市を経て妙見山に至る「能勢街道」という古道がありますが、大阪と能勢は信仰を介して結ばれていたようです。 明治十五(一八八二)年の「大阪名所独案内」には「夫婦池妙見祠」として霊場が紹介されています。 また、浪華百景に選ばれた浮世絵「北妙見堤」(国員画)には、桜が植えられた堤が画かれており、正善院界隈は桜の名所として知られ、花見客で賑わっていました。 望月真澄 身延山大学教授(2020) [夫婦池の妙見さん「関西の法華霊場と法華信仰」『仏教芸術が創る世界』]P.145-148山喜房佛書林
長崎奉行の能勢金之助と勝海舟・坂本龍馬 勝海舟と能勢妙見宮 勝海舟の父・勝子吉は、海舟の開運出世を願い東京・墨田区にある能勢家屋敷の妙見宮に日参した。 勝麟太郎(勝海舟の幼少名)も手を引かれ参っていた。 親子の愛情は、子母澤寛の「父子鷹」でも有名で、自らが果たしえなかった青雲の志を子に託す父と、その期待に応えようと不断の努力を続ける子。下町を舞台に父子愛を描いている。 子吉は、大阪の能勢妙見宮にも参り、その事は「夢酔独言」の“能勢の妙見詣で”にも書かれている。 勝海舟と夫婦池 能勢妙見宮 正善院 勝海舟も大阪城登城、勝塾(大阪海軍塾)と大阪に縁があり、蛤御門の変の直後も桜宮の地に龍馬と共に訪れたと日記に記している。 当寺院の参拝記録は焼失しているが、海舟のお題目による妙見信仰は幼いころから培われていて、長崎への御用のとき、宿泊先の禅寺でも題目を延々と唱えていたと伝わっている。 旗本能勢の本拠天満屋敷 能勢妙見宮 正善院へ、金之助に伴われた勝海舟が龍馬と共に参拝したと言われている。 坂本龍馬と妙見菩薩 龍馬は、千葉周作が開いた本拠地「玄武館」で「北辰一刀流刀兵法、一巻」を授かり、周作の弟、定吉より免許皆伝を受けた。 千葉一族(千葉県の名の起源)の守護神は「北辰妙見菩薩」で、日蓮聖人の有力な信者の富木常忍や太田乗明は、千葉家の家臣である。 剣と同時に妙見信仰にも磨きかけていたことは想像し難くない。 妙見菩薩の「妙見」とは「まだ見ぬ未来を見通す」という意味がある。 光り輝く大きな宝珠を授かったであろう。 能勢金之助と勝海舟、坂本龍馬 能勢金之助は、元治元年(1864)一橋慶喜から、外国艦隊の下関攻撃を回避せよ、との御用を受けた勝海舟に、坂本龍馬と共に目付として同行した。 1865年2月、勝と金之助と坂本龍馬の3人は、天満の能勢妙見に参拝し、 神戸港から発ちました。金之助家中は、井上平太ほか17人が同行しました。 長崎に着くと、勝と金之助はアメリカやイギリスやオランダの領事と会見し、 軍艦が下関を通過するのを控えるよう要請を続けました。 平尾悦子.広報のせ10月号No.676「文化財への道」より引用 http://www.town.nose.osaka.jp/material/files/group/1/iruruiugtjg.pdf 日程は、2月14日~4月11日。金之助と海舟は、米国と蘭国の領事との会見調整を行う 又、長崎海軍伝習所や鉄工所、造船所を視察したり、横井小楠の『海軍問答』を聞いている。 翌、慶応元年(1865)8月10日、金之助は長崎奉行となる。イカルス号事件では、龍馬に配慮する。 長崎への出張記録 鍋島藩の日記(勝海舟と能勢金之助) 文久四年正月より四月迄 文久四年三月朔日 曇 一 今度下向御目附能勢金之助殿、先月十八日豊前中津江 着岸相成候由ニ付、 御軍艦奉行並 勝 麟太郎殿 上下 廿一人 御目附 能勢 金之助殿 同 拾六人 御徒目附 大木 六郎 村上与七郎 同 三人ツツ 小人御目附 中山 七太郎 小沢 鍋太郎 同 弐人ツツ 手覚 御軍艦奉行並 勝麟太郎殿 御目附 能勢金之助殿、肥後より嶋原渡海 去ル廿三日矢上御昼休ニ而御着崎相成候由ニ付、 大分県大分市公式 坂本龍馬、勝海舟も駆け抜けた佐賀関・肥後街道 https://www.city.oita.oita.jp/o157/bunkasports/guide/1269756487777.html 能勢金之助の幕府役暦 徳川実紀(幕府の日記)に、能勢金之助は、文久2年(1862)6月当時御使番、火事場見廻り、9月御使番として翌年上洛する将軍家茂のお供をする名簿にはいっている。 家茂が上洛して江戸へ帰るまで「当座の目付」役の後「大坂目付」へ。 慶応元年(1865)5月「日光奉行」文久3年(1863)3月から「目付」海舟、龍馬と長崎への御用。慶長元年(1865)11月に大隅守となり「長崎奉行」に就任する。 夫婦池 妙見宮の能勢頼富公の生涯 守徳院殿頼富(らいふ)日向大居士 『頼富(よりとも)公墓碑』 家君姓源多田満仲之裔 父頼功母京極氏 家君、姓は源、多田満仲の裔(えい)、父は頼功(よりいさ)、母は京極氏、 文政五壬午正月十四日生天保十三年 文政五年(一八二二)壬午(みずのえうま)正月十四日生まれ、天保十三年(一八四二) 壬寅續家元治元依幕府命警衛京師 壬寅、家を継ぐ、元治元(一八六四)、幕府の命(禁門の変)に依り京師(けいし)を警衛(けいえい)す、 同年七月以功叙従五位被任日向守 同年七月功を以て従五位(じゆごい)に叙(じょ)し、日向守(ひゆうがのかみ)に任ぜらる、 慶応三年更奉 朝命護京師翌年正月 慶応三年(一八六七)更(さら)に朝命を奉じて京師を護る、翌年正月 奉窺 天機同月献 御太刀御馬代五月 天機を窺(うかが)い奉り、同月御太刀(たち)・御馬代を献ず、五月 被召拝朝臣賜本領六月警衛期満 召されて朝臣(あそん)を拝し本領を賜る、六月警衛の期満ちて 賜御下書而帰邑 明治二年供奉 御東幸 御下書(おんげしよ)を賜りて帰邑(ゆう)す、明治二年(一八六九)御東幸に供奉(ぐふ)す、 同年奉還封土為大阪府士族同九年 同年封土を奉還し 大阪府士族と為る、同九年(一八七六) 六月付家事男頼萬同年九月廿一日卒 六月家事を男頼萬(よりかず)に付す、同年九月二十一日卆、 享年五十有五 享年五十有五 哀子頼萬謹誌 哀子(あいし) 頼萬謹誌 天保13年(1842)分家である能勢金之助に対し、宗家である旗本能勢頼富は、十四代将軍徳川家茂に仕える為、本拠を天満屋敷 能勢妙見宮 正善院においていた。 頼富は、分家にあたる、当時大阪目付であった能勢金之助より世情急変の情報を得ていた。 能勢頼富は、鳥羽伏見の戦いで、朝命を奉じて、御所を守るため警護に当たる。 頼富公は、明治天皇の御東遷に際してお供として行幸に参加している。 頼富公は、正善院でご逝去された後、北区の北霊園に埋葬されました。時は流れて平成6年、能勢家の一族と共に、菩提寺である清普寺(せいふうじ)へと改葬されました。 ■お寺の法話 「習気(じっけ)」 佛教説話に、次のような話があります。 ある日、お釈迦様とその弟子が街を歩いていました。 弟子が、道に落ちている縄を拾いました。 その縄は、魚の腐ったような嫌な臭いがしたので「臭い」と言ってすぐに捨てました。 しばらく歩いていると、今度は綺麗な紙が落ちていました。 弟子はまた、それを拾いました。 その紙からは良い香りがしたので、早速、懐にしまいました。 弟子はお釈迦様に尋ねました。 「縄も紙も、もとは匂いが無いと思いますが、何故このようになるのでしょうか。」 「お前の言うとおり、縄も紙も元は匂いが無い。しかし、縄は魚を縛ったので、嫌な臭いが付いたのであろう。 紙は、良い香りを包んだのであろう。このように匂いの残ることを習気(じっけ)と言うのです。」とお教えになりました。 ここにある香りは、仏教では気をさします。 気は、この話の香りのように目で見ることは出来ませんが、在ることは確かなのです。 又、仏教の教えでは努力は「習気(じっけ)」として残るといいます。 積徳(せきとく)という言葉もあるように、積んだ徳も「習気」として残るのです。 ご先祖様の供養もその善根によって亡き人の成仏がかなえられ、その上、目には見えませんがご自身もより良い世界へと導びかれるのです。 今世で積み重ねた努力は「習気」として残り、来世に於いて「習気」を積み重ねられた努力として思い出すことで、来世でのスタートのハードルが低くなるというわけです。人間は「死んだらおしまい」ではないのです。 以上のように今世において積み重ねた努力は向上心(習気)として来世に持ち越される、こういった考え方をするのが仏教であります。 日頃から、目の前の損得の得ではなく、美徳の徳を積むようにしていきたいものです。
子授け延命地蔵尊/北辰妙見大菩薩 子授け延命地蔵尊 夫婦池跡に妙見宮が創建された折、能勢頼功公が敷地内に祠をおき、その地にあった地蔵尊をお祀りされました。 奈良時代の地蔵尊で、手には「如意宝珠」を持たれています。 「如意宝珠」とは、「意のままに様々な願いをかなえる宝」という意味です。 人々の病気や苦悩を癒し、子無き人には子宝を授け、育ち難きは発育を助け、諸病平癒福徳延命を授けると言われています。 今もなお正善院夫婦池妙見宮の本堂にそのお姿があります。 北辰妙見大菩薩 古代より星の中で常に北を示し、不動である北極星に人々は神の力を感じていました。 それが信仰となり、仏教と融合して菩薩の称号が与えられたのが、北辰妙見大菩薩であります。 人々が仏様に与えられた宿題である人生の航路を歩む時に、私達を常に見守り、道を導き開いて下さるのが妙見大菩薩です。 「妙見」とは善悪や真理をよく見通すものと、いうことです。 その知恵を頂ける菩薩様なのです。 ■福禄寿/北大阪の七福神巡り 福禄寿 福禄寿は長頭短身の老人の姿で知られる神様で、福寿を司るとされる南極星の精と考えられていました。 福禄寿のそれぞれの文字は福は幸福、禄は財産、寿は長寿を表しています。その昔、中国の皇帝の前で「我こそは寿を与える聖人なり。」と自ら名乗りました。 そして「私は黄河が澄むのを度々見たことがある。」と話し出しました。中国の大河、黄河は、常に濁っており、一千年に一度だけ澄むと伝えられています。 これは大変な長寿の人だ、と帝が思った時、にわかにその老人は消えてしまったということです。正善院妙見宮の福禄寿さんは江戸時代に祀られた福神で、北極星の精である北辰妙見大菩薩と共に本堂正面祭壇に安置されています。 北大阪の七福神巡り 大阪の七福神巡り 中世以降、民衆の間には、現世で幸運を授けてくれる神々への信仰が盛んになり、江戸時代に福徳開運を求めて順を追ってお参りしたのがいわゆる「七福神巡り」です。 海の彼方から、七人の福神が金銀財宝を船に積んでこの国を訪れてくれるという信仰です。 このように、七福神を祀った社寺を順番に参詣していく風習は古来よりありましたが、現在また復活の兆しがあります。 戦災などで神社仏閣の様子が変化したことにより、知る人ぞ知るという存在になった「北大阪の七福神巡り」ですが、昔の人がたどった様に、お寺もゆっくり参詣すると新鮮な発見があって、歴史を肌で感じることもできるのではないでしょうか。 大阪・北大阪七福神 http://naoma.cocolog-nifty.com/naoma_diary/2007/10/post_f815.html
文化・芸術について ◎『芦分船』一無軒道冶著 延宝3年(1675)刊 女夫池の近くに仲睦まじき夫婦が住んでいたが、貧しい生活の為、夫は三年辛抱してくれ、もし帰れなかったら死んだと思い、誰かと幸せに暮らしてくれと出稼ぎに出た。 しかし、三年以上経っても戻らず、たまりかねた妻は女夫池に身をなげてしまう、のちに夫が帰り事実を知り翌朝夫婦池に飛び込み、妻の後を追った。 近松の『津国女夫池』の「女夫名は永き世の女夫池」はこの話を比ている。 ◎近松門左衛門の『津国女夫池』 享保六年二月竹本座(1721) 浄瑠璃近松門左衛門 将軍足利義輝に謀反した三好長慶の事件からその家臣の家族にまつわる因果な話と大阪天満 夫婦池にあった「芦分船」の話を結びつけ展開している。 しばしの敵も来世の女夫。しばしの兄弟此世の女 夫名は永き世の女夫池。 池の玉藻を亡玉の形見に。茂る芦真薦 語 伝へて言の葉の寄るへの。 水とぞ成にける(第三) ◎雨月物語『浅茅が宿』 上田秋成 安永5年〔1776〕刊 大阪天満の人 下総の真間に仲睦まじき夫婦が住んでいたが、貧しい生活の為、妻に帰る約束をして京に商いに出る。 少ししてから真間が戦場になり、帰路に着くが思わぬ災難に遭う。 七年後帰り妻と喜び再会し一夜過ごすが、朝眠りから覚めると妻は居なく廃屋に居ることに気がつく。 寝て居た場所は妻の塚であった。 ◎雨月物語は、芦分船の影響を受けていると考えられる。 上田秋成は、大阪生まれで三歳より天満堂島で育ち、後の師匠である都賀庭鐘も天満の人で女夫池の「芦分船」の物語は十分認識していたのは確実である。 芥川龍之介や三島由紀夫など多くの作家が愛した「雨月物語」は、後に溝口健二監督によって映画となり大反響となる。 最近では、村上春樹との関係が注目されている。 時代が変わっても夫婦の間の永遠のテーマが示されている。 ■監修/参考文献 監修 三重大学名誉教授 酒井 一 参考文献 望月真澄 身延山大学教授(2020) [夫婦池の妙見さん「関西の法華霊場と法華信仰」『仏教芸術が創る世界』]p.145-148 山喜房佛書林 参考文献 橋爪節也 編集者(2020) 『原寸復刻「浪花百景」集成』p19-20 p42 p135 p170-171 創元社 参考文献 広報のせ10月号 文化財への道 2019年 平尾悦子 参考文献 熊田 司(編)、橋爪節也(編)(2010) 『森 琴石 作品集』東方出版 参考文献 [「北妙けん堤」『浪花百景一いま・むかし一』] p8 大阪城天守閣(大阪市経済局) 参考文献 熊田 司(編)、伊藤 純(編)(2009) [縁日には終日参拝客「夫婦池 妙見祠」『森琴石と歩く大阪一明治の市内名所案内』] p232-233 東方出版